日本近代建築
それまでは木造が主流だったところに、レンガや石造りの西洋風の建物が建築されるようになりました。
長崎の観光名所としても有名なグラバー邸は、この当時に、イギリス人のトーマス・ブレーク・グラマーによって建てられたコロニアル様式の建築です。
また、日本最古のカトリック教会である大浦天主堂は、ゴシック様式を参考に建築されました。
ジョサイヤ・コンドルが建築した鹿鳴館はあまりにも有名な建築物ですし、ビザンチン様式で建てられているニコライ堂も、東京に行ったら一度は目にしたい建築物の一つです。
当初は外国人からの教えを受けていた日本人ですが、徐々に日本人が西洋風の建築を行なえるようになると、彼らが大活躍する時代になっていきます。
旧開智小学校は、日本人が西洋風の建物を手探りで建てた建築物で、漆喰などの日本の建築様式を用いながらも、造りは西洋風となっている、面白い建築物です。
また、日本人建築家の辰野金吾氏は日本銀行や東京駅を、片山東熊氏は現在の迎賓館を、中條精一郎氏は慶応義塾大学の記念図書館をそれぞれ建築しました。これらは、現在でも貴重な建築物として現存しています。
大正時代の建築
大正時代になると、日本独自の建築が行なわれていきます。その大きなポイントとなって観点が、耐震性です。
大正時代に起こった関東大震災の教訓から、それまでは求められていなかった耐震性が、大きく求められるようになったのです。そのため、耐震性は建築技法や建築材料に大きな影響を与えました。それまでは西洋風の建物というと、レンガ造りや石造りだったのですが、鉄筋コンクリートが併用されるようになったりしました。
この大正時代に建築された主な建物が、旧名古屋地方裁判所です。現在は名古屋市の資料館となっています。これは、鉄筋コンクリートとレンガが併用された建築物で、外観はバロック様式になっています。
また、旧名古屋銀行の本店だった建築物は、鉄筋コンクリートで建築され外壁は石張りとなっているという、非常に工夫に富んだ建築物となっています。
昭和に入り、戦後を迎えると、耐震性に加えて耐火性に富んだ建築が作られるようになり、高度経済成長期には建築技術や建築材料、建築上の表現も多種多様になり、目覚ましい進歩を遂げました。
旧明治生命館や東京中央郵便局は昭和初期の代表的な建築物ですし、国会議事堂は、日本美術の総合傑作となっています。
その後はさらに日本独自の建築が行なわれるようになり、耐火性や耐震性は確保しつつも、幾何学抽象的な建築物や超高層ビルが建築されるようになっていきます。
看板建築
看板建築といっても、看板を作っているわけではありません。看板建築とは、主に東京や関東周辺で関東大震災後の昭和2、3年ころに建築された、主に商店などで用いられた建築様式です。
この看板建築という言葉は、路上観察学会員で東京大学生産技術研究所教授の建築史家、藤森照信氏が命名しました。
具体的には、木造2階建てで屋根裏部屋があり、店と住まいが一緒になった併用店舗となっているもので、前面の壁面は垂直にたちあがって、銅面やモルタル、タイル張りとなっているものです。建物は通りに面していることが多いため、軒が前面に出ているということはありません。
この、前面の平たんな壁を利用して、自由なデザインを試みたところから、看板建築という名称がつけられました。
ですから、建築物に看板を取り付けたものは看板建築とは言えず、また平面の壁面が広告や看板のためのスペースとなっているものも看板建築ではありません。
現在では見る機会は減ってしまいましたが、まだまだ残っているものも多くありますから、誰もが何気なく目にしたことがある建築物だと思います。
看板建築の発祥
この看板建築は、もともと関東大震災後の復興において、通りが幅広くなったことで商店の敷地面積が減り、軒を出しにくくなったことが影響しています。屋根裏部屋があるのも、敷地面積が狭くなったために考え出された、苦肉の策でした。
同時に耐火性の点から、建築物の外側は燃えにくい材質を使う必要がありました。そのため、モルタルや銅板などが使われるようになったわけです。
そしてまたちょうどその時代には、庶民の間でも、洋風なデザインが大流行してきていたことが影響して、擬洋風建築が建てられるようなってきていました。
これらの要因が重なり合って出来たのが、看板建築です。また看板建築は、モルタルと銅板細工という職人の技を活躍させることにもつながりました。
古典主義からその時代の一番新しい建築様式、さらには江戸小紋などの日本独自の柄など、見よう見まねの西洋式と日本古来のデザインが合わさったモルタルや銅板細工は、非常に個性的で、看板建築の面白さを創り出しています。