アール・デコ
アール・デコとは、一般にアール・ヌーヴォーの時代に続いて、ヨーロッパおよびアメリカ(ニューヨーク)を中心として1910年代半から1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向です。原義は装飾美術です。
幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持ちますが、その装飾の度合いや様式は多様です。
アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開きました。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんで一般に「アール・デコ」と呼ばれるようになりました。また、1925年様式」と呼ばれることもあります。
キュビズム、バウハウスのスタイル、当時発掘が相次いだ古代エジプト美術の装飾模様。アステカの装飾、日本や中国などの東洋美術など、古今東西からの様々な引用や混合が指摘されています。
アール・デコは、装飾ではなく規格化された形態を重視する機能的モダニズムの論理に合わないことから、流行が去ると過去の悪趣味な装飾と捉えられました。従来の美術史、デザイン史では全く評価されることもありませんでしたが、
1966年、パリで開催された、25年代展」以降、モダンデザイン批判やポスト・モダニズムの流れの中で再評価が進められてきました。
スターリン様式
スターリン様式とは、ヨシフ・スターリン政権の時代のソビエト連邦で多く建てられた、建築物の様式の1つです。主に、1933年(ソビエト宮殿の最終デザインが固まった年)から、1955年(ソビエト建築アカデミーが廃止された年)までの間に建てられました。
第二次世界大戦以後のソビエト連邦内の大規模建築、特に超高層ビルに多く見られるほか、第二次世界大戦後にソビエト連邦の衛星国となった東ヨーロッパ諸国をはじめとする共産主義国家の建築にも大きな影響を与え、現在も旧東ドイツの首都であるベルリンやポーランドのワルシャワ、中華人民共和国の北京、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌、モンゴルのウランバートルなどにその影響を受けた建築物が散見されます。
スターリン様式の中でも特に「スターリンゴシック」と呼ばれる様式の重厚な高層建築がモスクワ市内に7棟、ワルシャワ市内に1棟存在します。モスクワの7棟の「セブンシスターズ」と呼ばれています。
ウルトラ・バロック
ウルトラバロックとはメキシコ、ペルーなど中南米諸国において、宗主国であるスペイン、ポルトガルが導入したバロック建築様式が現地の人々の美意識によって、独自の発展を遂げた様式です。
建設には当初、ヨーロッパ本国から部材を運ばれたものもありましたが、次第に現地の材料、現地の職人によって建設とその維持、修復が行われるようになると、現地人の美意識が反映した「新しいバロック建築様式」とよべるものが現れました。
「ウルトラバロック」とは写真家小野一郎の造語。その特色は、過剰な装飾、極端な造形、鮮やかな色づかいなどです。これらの本家の「ヨーロッパバロック」にもある要素ですが、それを一層、大胆かつ極端に推し進めたのです。
それに着目しメキシコの教会建築をつぶさに撮影した小野一郎はこれを「ウルトラバロック」と呼びました。
オスマン建築
オスマン建築は、14世紀から19世紀までのオスマン帝国の勢力下において見られる建築です。
サファヴィー朝のルシャ建築、ムガル朝インド建築とともに、イスラーム近代建築の一角を形成しています。
それまでのイスラム建築よりも、論理性や幾何学的秩序を重んじる傾向が認められ、イスラーム世界の盟主となったスレイマン1世の時代には、他のイスラム建築にも西ヨーロッパの建築にも見られない独自の空間を形成しました。
また、末期に至るまで、東ローマ帝国の大聖堂であったアヤソフィアを例外として、他の建築様式からの影響をほとんど受けませんでした。
ヨーロッパ列強国の干渉を受けるようになった18世紀末になると、ヨーロッパ化した貴族階級によってバロック建築、ロココ建築の装飾を取り入れた住居建築が建てられるようになりましたが、このような混淆様式の住宅形式が現代の住居建築、特にフランク・ロイド・ライトに影響を与えたとする話もあります。